私は中学生の時に神様を信じました。信じる前にも教会には行っていましたが、遊ぶためでした。私は「自分の存在価値は何なのか? 自分はいてもいなくてもいいのではないか? 生きている意味は何なのか? 目的は? いてもいなくてもいいなら、死んじゃってもいいんじゃないか?」と考えていました。
その頃、夏のバイブルキャンプがあり、誘われるままに参加しました。自然に囲まれて、同年代の仲間と共に賛美をしたり、聖書のお話を聞いたり、ゲームをしたりと楽しく過ごしました。
その中で、先生とお話をする時がありました。私は「人が死ぬのは自分の罪のために、その罰としてなのですか?」と聞きました。それは「罪からくる報酬は死です。」とはどういう意味だろうと思ったからでした。
また、「イエス様は私たちの罪のために死なれた。」とはどういうことなのかと思いました。先生は「イエス様が死んだのは、すべての人の全部の罪のためなんだよ。」と言いました。「え? 全部? どういうこと? なんで?」というのがその時の気持ちでした。それはまるで、「この100万円をあげよう。」と急にいわれても、「え?どうして私に?」と思うのと同じくらい、頭で考えようとしてもよくわからないものでした。
でも、「信じるということは、すべてを理解するということではない」と知りました。そして、私は自分の罪を告白し、「キリストの十字架は私のためだった」と信じる決心をしました。
クリスチャンになったからといって罪を犯さなくなるわけではなく、かえって、「あ~、私はだめなクリスチャンだ。」と思うこともありました。でもクリスチャンは罪を犯さない人ではなく、自分が罪人だと知っている人だとわかりました。恵みによって生かされていることを知っているので、感謝し、喜ぶことができるのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。・・・行ないによるのではありません。」(聖書)
私は神様に愛されるために生まれ、私は神様を愛しています。自分がこの世を去ってもどこへ行くのかわからないという不安はありません。だから安心して死ねるし、希望があります。平安な毎日を送り、いつも喜ぶことができる幸いを感謝します。(1998/6/28)村川民子
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