小学生の頃から、私は死に対する異常なほどの恐怖に怯えていました。落雷に当たって死んだらどうしようとか、墜落した飛行機が我が家に当たったらどうしようとか、チェルノブイリ原発事故の影響で白血病になったらどうしようとか、ありとあらゆる可能性に怯え不安な毎日でした。
そこで私は神様に祈りました。姉がカトリックの幼稚園に通っていましたので祈りの作法は知っていました。しかし祈る相手はよくわからず、あるときは神様、あるときは仏様、あるときは守護霊様と、とにかく自分の都合で作り上げた○○様に祈っていました。寝る前に長いときは30分以上もかけて祈っていました。死の奴隷となっているための空しい脅迫的な祈りでした。祈っても安心はなく、かえって不自由さを感じていました。
それから中学生になり、友人に誘われて行った教会で、宣教師の話を通して、イエス・キリストが本当の神様であることを知りました。私の友として、いつもそばにいて守ってくださり、祈りを聞いて応えてくださる方だと知って、安心が与えられました。
そして教会の礼拝に通ううちに、死は人の罪の結果であること、しかしイエス・キリストが私の罪のために十字架につけられ、身代わりとなってくださったこと、それどころかイエス・キリストは死からもよみがえられ、死に打ち勝ってくださったことを知り、私の死に対する恐怖はイエス・キリストを信じることで解決しました。
私は今でも毎晩祈っています。祈る相手は間違いなくイエス・キリストです。そう長く祈らずとも心のうちには平安があります。イエス・キリストによって永遠のいのちが与えられているという確信があるからです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」 (ローマ人への手紙6章23節)小林泰輔
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