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恵みに生かされて

 私が物心ついた時には母親はいなく、母親に甘えるということを知らないで育ちました。子どもの頃は経済的にも貧しかったので、継母に対しては遠慮や我慢を自分に強いてきました。温かい家族を羨む気持ちを子ども心に強く感じながら、心の中の何か満たされない思いを、人前で明るくおもしろく振る舞うことで人の歓心をかい、自己満足させていたように思います。

 青年になってからは、まじめに生きようと努力し、「人生論」の本なども読みあさりました。そうすることで、自分に欠けているものが満たされるのではないかと思いました。

 しかし、何を読んでも考えても、自分が行っていることと考えていることの違いに少しも自分が変わりませんでしたので、自己嫌悪に陥るだけでした。そんな私がキリスト・イエスについて考えるようになったきっかけは、大学で週に一度礼拝堂で賛美歌を歌い、学長から聖書の話を聞くようになってからのことでした。「いつくしみ深き友なるイエスは」は、私が最初に覚えたさんびでした。嫌なことがみんな吸い取られて、心の中にたとえようもない平安な気持ちがしみこんでくるように感じたものでした。

 学生生活が始まって間もない頃、アルバイトを通してクリスチャンの家庭に出会うことができました。肉親への不信感を強く持っていた自分にとって味わったことのない温かい家庭の雰囲気に触れて、気持ちが素直になっていくように思えました。

 「主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることなし。」

 その家庭の姉妹から最初に紹介された聖書のことばが深く心に残りました。今でもこのみことばが私の支えとなっています。まもなくその姉妹の誘いがきっかけで、現在の教会に行くようになりました。

 その後、聖書のことばを通して、自分がいかに外見に囚われ、体裁ばかりを気にして、他人に良く見られようとしていたかを知るようになりました。そして、自分の内面を見る時、人には言えないような見苦しいものを隠しながら生きている自分の姿がだんだんはっきりわかるようになり、偽善的な自分に悩むようになりました。イエス・キリストの愛と清さを知るほど自分の罪深さも自覚させられました。

 「もし、わたしたちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を許し、すべての罪より私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1:9)

 このみことばに信頼し、キリストを信じて洗礼を受ける決心をしました。21才でした。どんな書物や人の意見でも解放されなかった重々しい心が、何かすがすがしい嬉しさに変わっていくのがわかりました。

 それから、30年のクリスチャン生活を送るなかで、キリストの十字架に現された神の愛と恵みをますます深く知るようになり、常に自分は赦され生かされているということを感謝できるようになりました。

 私の信仰生活には試みや困難もあります。しかし、すべてのことは神の愛から発していることを信じています。そして、祈りの結果を神に委ねて希望を失わずに生きられるという恵みをいただいていることを感謝しております。(2000/2/27)松山 博


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