私は小学生になる前に父と死に分かれ、その数年後に兄と祖父をほぼ同時に亡くし、高校生の時同居していた姉夫婦を亡くしと、次々親しい肉親の死にあいましたので、小さい時からずっと死の恐怖におびえて来ました。そのため、心の中はいつも不安と恐れで一杯で、それを隠そうとして、人前では無理をして明るく振舞っていました。でも、そんな不自然さは長続きせず、自分が嫌でたまりませんでした。
社会人になってからは、既にキリストを信じて新しい生き方をしていた姉の姿を見て、私も今のままではいけないと思い、礼拝や初心者のための集会に出るようになりました。しかし、具体的にはどのように生きたらよいのかわからず、誰に聞いても満足な答えが得られず、空しい思いからオペラやバレエ、音楽会等美しいものを求めていましたが、どれも皆一時的な慰めに過ぎませんでした。
ある時特別な集会に二度続けて出席した時、「キリストは私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。……」という聖書の御言葉を聞き、「私たちのために」の中にはこの私も入るのだとはっきり気づきました。
『神様から離れ、的外れな生き方をしていた事すら知らなかったこの私を救うために、キリストは十字架にかかられたのか。それなら私はこのお方のために生きよう。』とごく単純に受け入れ、今までいくら考えてもわからなかった自分の生き方が少しわかったように思え、『神様がイエス様によって私を赦して下さったのなら、私は本当に赦されたのだ』と、何ともいえない安らかな気持ちになりました。
しかし、教会で聖書の話を聞くうちに、自分が自覚していたよりももっと傲慢で自己中心な者であり、正しく清くありたいと願っても自分の力ではどうにもならないと知りました。人の成功を快く思えず、他人と比べて劣等感に陥ったり、卑屈になったり妬んだりと、本当に醜い者だとわかり、こんな自分を変えたいと願いました。心の中にイエス様をお迎えすれば心の底から清めて支配して下さり、束縛されている恐れや不安から解放し、正しい者と見なして下さると教えられ、神様の大きな愛に圧倒されました。
以前は眉間にしわを寄せ、ため息ばかりついて憂うつな私でしたが、イエスキリストを自分の主としてからは本当に気が楽になり、死の恐怖からも解放され、それまで慕わしく思っていたものも色あせて見えるようになりました。今は家族全員で主を信じ、依り頼む者を決して捨て給わない主なるイエス様に従って歩む幸を心より感謝しております。(2001/8/26)松崎雅子
#死の恐怖 #不安 #劣等感 #平安
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