いま多くのサラリーマン諸氏がどういう思いで過ごしているかは、夜11時頃の東海道線にでも乗ってみればよく分かります。例えば3人の仕事仲間が一杯やったあとで乗り合わせていたとします。彼らはほとんどの場合、仕事、会社、他の仲間、上司への不満を声高に言い合います。また、このうちの一人が下車すれば、その人への悪口が始まります。酔っ払いのことでもあり、言っていることは無茶苦茶なのですが、当の本人はご高説をのたまわっているつもりです。でも最近のそれは結構深刻なものが多くなっているようです。
さてかく言う私も昔は、そうでした。技術者として入社しましたが、よい経験のつもりでセールスエンジニアに志願し、なんと個人でグループ全体の50%の売上を上げるほどになりましたが、出る杭(くい)はなんとかの例えの通り、特に直属の上司との折り合いが悪くなりました。今でもそうですが、わりとはっきり物を言うのが災いしてか、上司の覚えが悪く、同期で最も安い給料でありました。
そういうわけで、仕事は面白く、また客先の評判も上々でしたが(だったと本人は思っております)、会社、上司にたいしては不満だらけの毎日でした。私の家内は結婚前からクリスチャンでしたが、私は教会にほとんど行ったこともありませんでした。
それがほんの一寸したきっかけで(説明すると長くなるので省略します)子供たち2人と一緒に、教会に通うことになりました。最初は講壇から一番遠い母子室のさらに後ろで、先生のお説教を聴いていました。
あるとき「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)というみ言葉が聞こえてきました。聖書にはそもそもこの世の常識とはかなりかけ離れたことが書いてあるなと思っていましたが、このときはガーンと頭を引っぱたかれたような衝撃がありました。私は何にくよくよしたり、腹をたてていたのだろうか。主はすべてをご存知であったのです。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31) 主は私たちが本当に必要とするものをとうにご存知で、それらをすべて与えられるのです。(不必要なものは与えられませんが)
私はこのみ言葉を与えられてずいぶん楽になりました。もちろん罪人である私ですから、これで昂(たか)ぶりが収まり、不満が完全に解消したわけではありませんが、このことをきっかけに生き方が変えられたように思います。それからは、教会では母子室を出て会堂の後ろの椅子、更に前へと少しずつ席を移し、今は前から3番目の列に座るようになりました。しばらくしてペンテコステのよき日に洗礼を受けることができました。今は小さなエンジニアリング会社の経営に参画しており、普通なら思いわずらいは、昔の比ではないはずですが、すべてをご存知の主におまかせして、得難い平安のうちにすごさせていただいております。(2001/6/24)篠原敏
#仕事 #平安
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